【アンダーグラウンドのスーパースターを目ざして】変身忍者 佐藤豪姫 逸話

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写真は、変身忍者「佐藤豪姫」、

正式には、変身忍者佐藤豪、ではあるのだが、

私が営んでいた荻窪のboxinglee’s cafeで

レギュラー的な存在になったころの

彼の写真である。

当時、

NHK大河ドラマ「豪姫」が

高視聴率を取っていたことから、

どうよ!という提案で

彼は、やる!

自分が、店を出すときに、

boxingleeという当時のハンドルネームを使ったのには

理由がある。

当時の自分のサイトにもコンセプトとして、

「アンダーグラウンドのスーパースターを輩出する!」

そのマーケティングを店舗で実践するということを

表明している。

(その頃の画像が今見つからないが)

それは所謂「アングラ」ではない。

アンダーグラウンドである。

時は2000年ちょい前、

ミレニアム、という記号の元に、

20世紀の総括と、21世紀への予兆が

メディアで頻繁に対話されていた。

当時はまだインターネットがようやくそこそこ普及した頃、

BBS(掲示板)がSNSの走りだった。

当時私は、そこそこ売れてるマーケティングプランナーだったのだが、

ちょっとしたタイミングで、店を持つことにした。

長年の夢を実現するため。

その夢の実現とは、

とってもシンプルに書くと

「自分が憧れていたスーパースターを自分の場所で輩出する」

ということだった。

それは当時のサイトでは、

人間力マーケットというサイト名で、

コンセプトは

「アンダーグラウンドのスーパースターを輩出する」

と銘打ったもんだった。

そして、開店したが、

上手くゆかず3年目、

そろそろ運転資金もギリギリながら、

そこそこ売り上げもギリギリ悪くない、

というあたりに現れたのが、

後の「変身忍者 佐藤豪」である。

彼と会ってからの経緯は一気に端折るが、

彼と価値観が合一した部分は、

私が青森県出身、彼が北海道、

私の上京の動機が「文学」であり、

彼の上京の動機が「漫画」だった。

私は20代手前、五木寛之と中上健次にやられていた。

彼の原点の作品の中で「まんが道」があった。

私も藤子不二雄の一番最初のハードカバー「まんが道」を

持っていた。

なろうろう、あすなろう!

あすはヒノキになろう!

その漫画のフレーズは、

私にとって、

文学としては、

五木寛之の「青年は荒野をめざす」の

青年のトランぺッターをめざす青年だった。

その手前では、

生まれ故郷の香港では生き方が不自由で

アメリカに飛んでハリウッドの底辺のスターになり

香港に返り咲き、

世界を席巻し、今でもぶち殺すぞ

というくらい席巻してる

ブルース・リーだった。

そして、新宿でのジャズ体験と

和歌山の土方仕事のリアルな描写が

入り混じった、中上健次が

私を、揺さぶり揺さぶりつづける。

中略

boxingleeという生産性の悪い店舗を

5年経営して、最大の産物が、

変身忍者佐藤豪だ。

ブルース・リーを見たのは

1973年だったか、

青森県十和田市の映画館

ロマンス座

「燃えよドラゴン」

世界は変わった。

それからの話だが、

ブルース・リーファンは

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、

世界中にいて、今でも

生きているブルース・リーを愛している。

そして、尊敬している。

私の、オレの!目指した

boxinglee’sは、まさのそのことである。

1回は、ひしゃげた。

2回は、落ち込んだ。

3回目は、どん底で、

4回目は、クソおやじとよばれ、

5回目は、目つきわるいとかね。

6回目は、生きてんのか?と、

で、その後は、

あんたと変わらないよ。

はっきり言おう!

キミは、あんたは、

徹底的な失敗をしたことがあるのかい?

オレが飲食店をはじめ、

店をたたむ、

それから、新たに営業する。

あれから10年以上が立って、

まだまだやるからね!

俺はもう一度、

ライブ系の店をやる気はある。

その時は、

ファイトマネーを

絶対に出すことを約束する。

今のオレは、

個人対象のマーケティングプランナー

昔から、プランナーとか

個人でやっている時、

胡散臭いといわれたよ。

けど、

真っ当に個人事業とか

サラリーマンでも覚悟している人は別にして

なんじゃこりゃ!?

と抜かしている

今のあんたは何?

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佐藤豪姫、また出てくるから、

気をつけろよ!

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