オチボ新聞

フルーツ盛り合わせ、お願いします。

人生は「大部屋」の中で紡がれる

最近、大部屋出身の俳優で構成された劇団に所属していたという男性と出会った。

「大部屋」、随分とこの言葉を見聞きすることがなくなったけど、なんか懐かしい響きだ。不思議なノスタルジーと共に、この「大部屋」という世界に潜む可能性について考えずにはいられなくなった。

「大部屋」という言葉には、一見して目立たないけれど、一般的な視界の片隅で、確実に支え合っている人々の姿が浮かび上がる。70年代や80年代の映画で一瞬を彩った端役の俳優たち。彼らは時代劇の中で、主役の人物の刀に倒れたりする。美しいドラマチックな瞬間を紡ぐために淡々と現れ、戦いの中で瞬く間に静かに消えていった。

「大部屋」が舞台の映画『蒲田行進曲』の中では、スポットライトが当たる主演の背後で、名もなき大部屋俳優が演じている。彼らはただの背景ではない。毎日黙々と役を演じ、身体を投げ出し、剣を振り、時には命をかけるかのような熱量を持って役に挑む。大部屋に生きる俳優たちは、一見するとただのエキストラかもしれないが、その中に自らの物語を潜ませている。

大部屋出身の俳優たちは、いつか訪れるかもしれない瞬間のために、日々を演じ続ける。大きな役を得ることなく去っていく者もいれば、その後も長く俳優人生を歩み続けて、誰かの心の中に「記憶の残像」を残す者もいる。人生の舞台で言うならば、私たちも多くの時間を大部屋で過ごしていると言えるだろう。日々の仕事の中で、スポットライトが当たることは少ないかもしれない。けれど、私たちはそれぞれが小さな役割を演じ、その積み重ねの中に、何かしらの意味を紡ぎ続けているのだ。

人生に喩えれば、「大部屋」とは、日々のルーティンや、他者の物語を彩る裏方的な立場かもしれない。しかし、その中で少しずつ物語を蓄積し、いつか自分自身の物語が動き出す瞬間を待ち続ける。誰かが自分を「見つける」まで、目立たない場所で自分を磨き続ける。現代でも、あるいは、私たちの周囲でも、そうした「大部屋」的な存在が、ひっそりと力を蓄えているのかもしれない。

時代は変われど、一握りのスターが活躍するのが、一般社会。多くの人が「自分の舞台」に立つ場所を求めているのは、大部屋の俳優たちと同じではないだろうか。

人生の端役は、ドラマチックに切られ、倒れ、掛け替えのない残像で勝負する。

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